2016年12月14日(水):曇り Wuppertalの戦争記念碑巡り
今日は授業がない水曜日ということで、午前中はダラダラ過ごしていました。午後は、以前お宅に招待してくれたKさんのお誘いで、Wuppertal内の戦争記念碑を訪ねることになっていました。
14時頃にKさんのお宅に伺い、そこから車で目的地まで連れて行っていただきました。
最初に訪れたのはJunkersbeckというところです。
Wuppertal郊外の、村のようなところに位置していたため、記念碑を見つけることができずに迷子になってしまいました。近くの家でそれについて尋ねてみたところ、そこにお住まいの方もよく知らないとのことでした(親戚のところを訪ねてきていたとかで、ここに長く住んでいるわけではなかったのだそうで)。
近くの丘...というか森のようなところに車では通ることができないような細い小道があったのですが、Kさんとどうもそこが怪しいという話になり、車を降りて歩いて行ってみました。
すると、高さ2~3メートルほどの大きな十字架と兵士の像が立っているではありませんか。どうやらここで正解だったようです。
記念碑にはアルファベット順に戦没者の名が刻まれています。第一次、および第二次どちらの戦没者もここで記憶されているとのことなのですが、アルファベットソートのため誰がどちらの大戦で亡くなったのかということはパッと見ただけではわかりません。
▲兵士の像 側面には戦没者の名前が刻まれています
▲このような形で、アルファベット順に名前が刻まれています
▲ここで追悼対象とされているのは、第一次・二次双方の大戦の戦没者です。誰がどちらの大戦で亡くなったのかということはアルファベットソートのため判別がつきません。
▲「両世界大戦の戦没者と犠牲者の栄誉に満ちた追悼のために」
ここでもEhreが出てきます。
また、記念碑自体はそこそこ大きなものなのですが、周囲の木立が邪魔して、少し離れただけでも見えなくなってしまいます。あえて目立たないように建てたのかと思ってしまうほどにひっそりとしたところです。
Kさんもこの記念碑を訪れたのは初めてだったそうなのですが、芸術関係の仕事をしていたKさんの最初のコメントは「この記念碑はあんまり芸術的じゃないなぁ」という辛辣なものでした。しかし、その発言には納得せざるを得ないものがあります。兵士の立像というモチーフで戦没者追悼を語られても雰囲気がないというものです。それどころか、やや好戦的な気配すら感じてしまいます。コブレンツの陸軍顕彰碑は、倒れた兵士の像でした。そのような形で露骨に"死"をにおわせてくれた方が戦没者を記念する場所にふさわしい厳粛さが演出されるというものです。もう少し何とかならなかったのでしょうか。
記念碑の麓には国民哀悼の日に捧げられたと思しき花輪が並んでおり、この記念碑が今もまだ生きた状態にあるのだということが見て取れました。
▲Wuppertal市の花輪。これ以外にはVolksbundやVdKのものがありました。VdKは戦争で被害を受けた方たちの団体らしいです。
国民哀悼の日はキールで過ごしていたため、それ以外の地域で花輪を見るのは実はこれが初めてです。Volksbundの花輪があるのは当然として、Wuppertal市や該当地区の名前が入った花輪が並んでいるのはどことなく新鮮味がありました。Wuppertalのような小さな町でも、行政としては国民哀悼の日にしっかりと参画しているということなのでしょう。おそらくドイツ全土の市町村がこうした花輪を地域の記念碑に捧げているものと思われます。
一通り写真を撮り、碑文を読んだところでここを去ることにしました。ちょうど先ほど尋ねたお宅の方が犬の散歩で近くを通りかかっており、Kさんが声をかけてお礼を言っていました。犬の散歩で訪れられる範囲の距離に立っている記念碑でありながら、こうも知られていないというのは面白い話です。既に景色の一部と化してしまっていて意識的に見ようとしていなかったからなのか、本当に目立たないことから知られていなかったのかわかりませんが、こうした場所ですらしっかりと聖別されているのです。
続いて、また少し離れた地区にある記念碑を訪れました。ここにはKさんと同じ苗字の方の名前が刻まれているそうで、どうも親戚関係にある方が戦死したということらしいのです。Kさんはやや珍し苗字の方なので、その名前を見たときにすぐにピンと来たのだとおっしゃっていました。
こちらの記念碑は、3~4メートルの石柱の上に鉄十字をかたどった碑が乗せられており、先ほどのものよりはスタイリッシュなデザインです。Kさんに「こっちの方が芸術的ですね」と言ってみたところ、「まあ人型の像は難しいからね」とのことでした。そういう視点もあるのか。
▲全景。先ほどより堂々とした記念碑です。哀悼の日に捧げられたであろう花輪が整然と掲げられています。
こちらは刻まれている戦没者が各大戦ごとに分けられており、また市民の死傷者についても名前が刻まれていました。つまり、戦没将兵の追悼・顕彰碑ではなく、この地域で戦争によって亡くなった方たちすべてを祀っているということのようです。鉄十字を見てすぐに軍関係だと思ってしまったのですが、早計だったようです。
▲鉄十字の中にも年代が刻まれていました
▲戦災で亡くなった市民のリスト
▲Kameradenverein、つまり戦友会の花輪です。他には消防団、教会などの花輪が掲げられていたのが特徴的でした。先ほどの記念碑よりもこちらの方が多くの団体から支援されているようです。おそらく式典もそれなりに盛大になされたのではないでしょうか。
駐車違反エリアに車を停めてしまっていたため、ささっと見学して車に戻りました。Kさんは続いて自分の実家がある地域を紹介しつつ、自分の銀杏関連の展示品が飾られているという町のインフォメーションセンターに連れて行ってくれました。が、まだ営業時間中のはずにも関わらず扉が閉まっています。近くに鍵を持っている人が住んでいるということで、古本屋に連れていかれたのですが、どうもそこにも鍵はなかったようでした。私は、バルト海からの救出作戦関連の本やら、ドイツ基本法が書かれた小冊子などを見つけて勝手に楽しんでいたのですが、Kさんはちょっとがっかりしていました。
インフォメーションセンターの営業はボランティアに委ねられているらしいのですが、今日は担当者が体調不良で来られなかったのだそうです。ちなみに、Kさんも毎週木曜日にここで働いているとのことです。仕事をリタイヤした後でもこういった形で社会とのつながりを保っているというのは中々大変そうでもありますが楽しそうでもあります。
結局どうしようもないのでKさん宅まで帰ることにしました。お宅で軽食をごちそうになったのですが、その後ほかの友達と飲み会をするから一緒に来ないかと誘ってくださいました。同道させていただいたところ、作家に画家、音楽家など、芸術家の集団のような方たちと同席することになり、若干緊張してしまいました。皆すでに80を超えたくらいのお年を召した方たちばかりで、あまりの元気さに驚かされてしまいました。Kさんは今日の話と併せて私の研究についてあれこれ話す機会を与えてくださったため、いろいろお話しさせていただく機会を得られました。しかし、自分でも今迷子になっているように感じているところですので、うまく伝えることもできずにもどかしい思いをしました。
結局21時過ぎに抜けさせていただいたのですが、充実した一日でした。
▲道中見つけた「躓きの石」(Stolpersteine)