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続・Wuppertal留学日記

2016年10月から2017年3月頃まで、再度留学する機会に恵まれました。前回に引き続き、大学の様子や体験などを書き残していこうと思います。

2016年12月9日(金):曇り 隣人宅パーティ再び

今日は授業終了後は家でずっと作業をしていました。夕方になってから夕食と買い物を済ませ、21時からの友人宅のパーティに備えていました。ただ、明日からの旅行の準備もあってややバタバタしており、気付いたら23時くらいになってしまっていました。

もういっそこのまま家にいようかなと思ったりもしたのですが、隣人から「来ないの?」とメッセージが来ていたため、少しだけ顔を出すことにしました。ビールやお菓子も買ってあったので、それをもってお邪魔してみたところ、前回以上に多くの人が溜まっていました。

「これからTrinkspielをやるからまだあまりアルコ―ルは飲まない方がいい」とよく分からない助言をされ、様子をうかがっているとそのゲームが始まりました。

スマートフォンのアプリで行うパーティゲームのようなものだったのですが、いろいろなお題や指令が出されて、それに沿ってお酒を飲んでいくという恐ろしいゲームでした。
例えば「白い靴下をはいている人は3口飲め!」とか、「Aさんは今からダンスクイーン!この人の動きをみんなで真似して、一番動きが遅かった人はコップ一杯飲め!」といった具合に毎ターン何らかの条件が示されていくのです。

ゲームの内容もさることながら、同じフロアに住んでいるご近所さんが集まってこういう風にワイワイ遊んでいるというこの状況が私にとっては異文化体験でした。これが本当の隣人愛か、などと一人感心していたのですが、こちらの人たちからするとこういう距離感の人間関係は極めて普通なようで皆楽しくやっています。

私は日本で一人暮らしをしたことがありません。そのため、日本における寮やアパートの文化を知りません。嘘か真か、「隣人がうるさく騒いでいたら壁を殴りつけて遺憾の意を表明する」などという話を聞いたことがあるため、日本の一人暮らしは殺伐としているのだというのが私のイメージです。それがここではどうでしょうか。隣人がうるさいなどという次元はあっさり乗り越えており、隣人を呼び集めてうるさくするという日本的発想の斜め上をいっています。
正直なところ戸惑う部分もあるのですが、こういうGemeinschaftっぽい感じは結構好きです。こういう人付き合いのスキルを学んで帰りたいと思う反面、そんなことを日本でやったら一日で村八分になってしまうような気もします。

こういう場にいると、新鮮な経験ができることに対する喜びを覚えますが、同時に自分はどこまで行っても日本人だなぁということを痛感します。私はドイツの人の雰囲気や、ここでの生活が好きですが、ドイツ人にはなれないしドイツに永住することもできないような気がします。
たかだか25歳の青二才ではありますが、私には既に日本式の思考や行動様式が染みついています。これを完全に取り払うことは相当難しいでしょう。かといって、ドイツにいるからといって非日本化されていなければいけないということもありません。日本人としてこういう文化にどう向き合うのか、またどのようにそこに馴染んでいくのかというのが"外国人"としての課題なのだと思います。私にはこの課題をクリアすることができる気がしません。私はやはり島国出身のシャイなアジア人です。以前より多少は人付き合いに対する垣根が下がってきた気がしますが、それでもどうしても違和感や場違いな気分に陥ってしまいます。

コミュニケーション力に関しては日本人は欧州人に叶わないような気がします。彼らは言語能力だけでなく、人との距離の取り方が異様に上手なのです。これはどういう文化に起因するものなのかわかりませんが、おそらく地続きに多くの国が接していることから他国人と接する機会も多く、そのためにお互いを分かりあおうとする意志が強いのではないかと邪推しています。さらに、異質な文化や人々と接する機会もおそらく日本人よりは多いのでしょう。そうした経験的学習の機会をフル活用しているのではないでしょうか。
一方で日本は島国であることも相まって、他国の人たちとの交流はそれほど多くはありません。故に「外人」という内集団たる"日本人"ときっぱり区別された存在を指す言葉が生まれたのではないでしょうか。どの国から来たのかとか、どういう文化圏から来た人なのかということは問題ではなく、日本の外から来た異質な奴らはまとめて外の人というわけです。全く根拠のない邪推ではありますが、なんとなくそんなことを感じています。
さらにいえば、日本は幸か不幸かモノリンガルな国です。今や小学校から英語を勉強しているという話ですが、それがなんだというのでしょうか。英語で友達を作ったり、英語を使うことで新しい知見を得られる経験があればそれは外の世界への興味につながるかもしれません。しかし、文化や人的関係と切り離された単なる学習分野として言語を学んでも、それは大した経験や知識につながらないのではないかと思います。
日本ではやたら英語が持ち上げられていますが、英語は学問や仕事の世界で世界共通語のように用いられているというだけで、そういう実用性のために学ばされているものだと思ってしまうと面白みもありません。私は隣国の台湾や韓国で話されている言語すらまともに話せないのです。それが英語を話せるということで得意になっていてどうするのでしょうか。私にとって、英語は異文化理解や他者理解と切り離された言語です。言語の背景には文化や歴史、教養や思想が含まれています。それと併せて興味を持つからこそ学ぶ意味・意義もあると思うのですが、日本で英語を学んでいてもあまりそういう興味を刺激されませんでした。もちろん英語に救われたことも数多くありますので、悪しざまにいうのも恩知らずというものではあるのですが...。

しかし、ここにきて色々な国の人や文化と触れあわざるを得ない環境に置かれると、日本にいた際に諸外国に対して向けていた関心度の低さが改めて強調されてしまい、自分が恥ずかしくなるのです。英語に対する敵意は、英語に頼っていた自分に対する自己嫌悪でもあるのかもしれません。

よく分からない話になってしまいましたが、隣人宅でビールを飲まされながらあれこれ考えさせられてしまいました。